ターニングポイント2017年05月25日 22時45分43秒

死ぬとき俺はきっと故郷のこの景色を思い出す
自己紹介でも書いてるように俺はプラントエンジニア。大学を卒業して今の会社に入り24年余、ずっとプラントエンジニアリングに携わってきた。自分が最初に配属されたのは専門色の強い最もマイナーな部署。実績と経験を積みながら、10年余り前から設計全体の取りまとめを担当するようになった。現在は創業以来最大規模のプロジェクトのエンジニアリングマネージャを担当し、誰からも文句を付けられることの無い実績を作ってきた。次はプロジェクトマネージャをやるつもりだったし、周りからもそう期待されていた。

そんな中、昨日トップマネージメントから一通のメール。それは予想もしなかった異動の通知。新しい配属先は本社のとある部署。今までに積み上げた経験と知識が全く生かせないわけではないと信じたいけど、配属先は知見の無い新しい分野。長年身を置いてきたプラントエンジニアリングとは全く異なる業務内容。常々新しいことに挑戦していたいと思っていたけど、新し過ぎて躊躇してしまう自分。本人の希望を尋ねる事もなくたった一通のメールで決まる新しい配属先、これがサラリーマン人生というやつか。自分の思い通りにやりたければ、会社を辞めて自営業をやるか社長になるしかない。

今の事業部のマネージャーとの関係は良好だし、生え抜きの自分を外には出したくなかった様子は感じられる。異動の理由は「事業部外からの強い推薦による」とだけの説明。事業部外には同期以外に知り合いなどいないし、訳が分からん。どうやら左遷って訳ではなさそうだけど、実のところ詳細はよく分からない。マイナー部署から抜け出して運が味方すれば事業部のトップが狙えるカモという位置に身を置いたと思った矢先の異動、世の中一寸先は闇。

まぁ悩んでも仕方ない。命取られる訳でもないし、この異動で家族が食うに困るわけでも無い。震災で職を失った人や働けなくなった人、家族を失った人の苦しみに比べたら異動なんて悩みでもなんでもないし。難病に苦しむ同僚の奥さんに比べたらこんなこと屁でもない。設計や建設の第一線から離れる寂しさはあるけど、新しい仕事はもっとやり甲斐のある可能性も十分にある。もしかしたら自分が成長できる千載一遇のビッグチャンスかも知れないし。

何はともあれ、2017年5月24日が自分のサラリーマン人生のターニングポイントとなる1日となったことは間違い無いと思う。10年後も元気であればこのブログを書いていると思うけど、どういう風にこの日を振り返るのか今から楽しみだ。がんばれよ、俺 (^^)

病気2016年05月17日 22時31分31秒

ひこうき雲
知り合いが病気を患っていると知らされた。二十数年来の知り合いで、家族ぐるみの付き合いをさせてもらっている、それほど多くは居ない友人と呼べる存在のひと。病名はALS、筋萎縮性側索硬化症。現代医学では治療法の見つかっていない難病。この病におかされる人は10万人に1-2人というのに。

この病のことはTVの特集などを見て知っていた。運動をつかさどる神経が障害を受けることで筋肉が動かしづらくなり、次第に筋肉が衰えていく病。発病から3-5年で半数の患者が呼吸不全で亡くなるという進行性の疾患で、いまだ原因は特定されていない。友人は発症から3年が経過しており、歩行に支障が出始めて要介護認定の申請を行ったとのこと。

自分の両親は健康で健在だし、祖母は103歳で大往生、自分も長生きできるハズ。自分はまだ死なない、死にたくない、死ぬはずがない、と無意識のうちに全く根拠のない思い込みをしている自分。東日本震災では1万5000人を越える人が亡くなったにもかかわらず、自分の身に起こる覚悟は出来ていない自分。人はいつか死ぬ、自分も例外ではない、そんな当たり前のことが受け入れられていない自分。

それが昨日、人はいつ死ぬか分からないし、どんな死に方をするかも分からないという現実を突きつけられた。一体どう接すればいいのだろう。自分には何が出来るのだろう。

追憶 22011年05月21日 23時06分46秒

故郷の風景
ウチの両親は専業農家。昼間は屋外に出て考え事をしたり、両親の畑仕事の手伝いをしてのんびりと過ごした。昼間はできるだけ外に出て、家の中には居ないようにした。指示されたわけではなかったけど、外の方が安心できた。学校を休んで1ヶ月ほど経った頃には不安や恐怖を感じることはほとんど無くなり、学校に戻ることを考え始めた。夏休みが明けた9月から学校に戻ることにした。

先生の勧めもあって、寮を出て下宿することにした。下宿先は仲のよかった文ちゃんの居たところに決めた。自転車で通う久しぶりの学校。同級生も先生も何もなかったかのように迎えてくれた。他人に影響されずマイペースで過ごせる下宿暮らしは新鮮で、とてもリラックスできた。

前期の期末試験が近づいてきた頃、勉強は明るいうちに済ませて夜は早めに寝るという規則正しい生活を心掛けていた。前期期末試験の前夜、TVを観ているとまたあの例えようのない不安と恐怖の感覚が蘇ってきた。やばい、またあの恐怖に襲われると思った。

そのとき、勉強を教えてくれと友人Nが下宿にやってきた。本当に勉強しに来たのか、俺のことを心配して様子を見に来てくれたのかは分からないけど、多分後者だったんだと思う。そんなに一生懸命勉強するヤツじゃなかったし。Nとくだらない話をしていると気分が楽になった。今度は友人Nに救われた。

次の日からは比較的冷静で、何とか睡眠薬を飲まずに期末試験の全日程を乗り切った。ごく当たり前のことだったが、少しだけ自信がついた。たかが学校の定期試験なのに、俺にとっては人生の試練とも言うべき1週間だった。

試験が終わて間もない頃、東芝をドロップアウトして教員になったM先生に廊下で声を掛けられた。「大丈夫か?君はまだ若いからきっと克服できる。社会に出てからだと手遅になったかもしれない。今までにそういう人を何人も見てきた。」と。何気ない会話だったけど、この悪夢のような経験が俺の人生にとってプラスになるのかと、この時初めて意識した。

確かにこの一件で自分が人よりも精神的に弱いことを自覚し、それを自分で意識するようになった。あとになって慌てることがないよう、何事も事前に準備するようになった。これまでの人生で経験した最大の転期。四国の田舎で天真爛漫で大らかに育った青年が、数ヶ月の間に神経質で繊細な性格に変わったことを自分で感じた。

その後俺は無事高専の5年生に進学した。大学の編入試験を受ける前日の夜、あの不安と恐怖を感じることはなかった。たぶんそれは最初から睡眠薬を飲むことを決めてたからだと思う。薬のおかげでいつもどおりに睡眠をとることができ、試験では実力以上の力が出せた。両親は試験に向かう俺をいつも通りに送り出してくれたけど、誰よりも心配していた筈。合格を告げたときの両親の喜びは今も忘れられない。

悪夢の出来事から1年余り経った5年生の前期期末試験で、俺は初めて念願の1番をとった。5年間の高専生活で最初で最後。心配をかけた先生や両親に成績で示したかった、もう自分は大丈夫だと。このとき薬は飲まなかった。今思えば恵まれていた学生生活だったと思うけど、それなりにいろいろと考え悩んでいたあの頃。

社会人になってからも何度か精神的に追い詰められる状況を経験したけど、なんとか自分でコントロールしてきた。今子供の成長を楽しみに生きていられるのも、あの経験のおかげ。あの経験は俺が社会に出て生きて行くうえで必要なものだったと思っている。

今も常に睡眠薬は持っている。社会人になってからも何度か病院に行き、睡眠薬を処方してもらった。滅多に飲むことはないけど、俺にとってはお守りのようなもの。学生時代に国立病院で処方された睡眠薬も大事に持っている。もう20年も前の薬で効きめは失っているだろうけど、俺を救ってくれた錠剤。

俺は自殺する人を責める気にはなれない。自殺する人の多くは精神的に追い詰められて、正常な判断ができなくなって命を絶っていると思うから。だから上原美優さんが自殺したと聞いた時、とても悲しい気持ちになった。何とか生にしがみつき、故郷の種子島でゆっくりと自分を見つめて欲しかった。まだ若いんだから、時間を掛ければきっと克服できた筈。

俺の経験なんてホント大したことないと思う。これを読んでつまらないとか、弱すぎるとか、甘いと思う人がいて当然だと思う。でもいいと思うんだよね、それで。人は皆それぞれ悩みを抱えていると思うし。人を楽にするというよりも、むしろこれを書く事で自分の気持ちが少し楽になった。

息子の人生はまだ始まったばかり。これから数え切れない程の困難や挫折を経験すると思うけど、絶対に自らの命を絶つということだけは防いでやりたい。いつか自分が父親になったらこの経験を話して、いつでも戻ってくる場所はあるからマイペースでいけと声を掛けてやろうと思ってた。

今度帰国したら久しぶりに友人Nと連絡を取ってみよう。