病気2016年05月17日 22時31分31秒

ひこうき雲
知り合いが病気を患っていると知らされた。二十数年来の知り合いで、家族ぐるみの付き合いをさせてもらっている、それほど多くは居ない友人と呼べる存在のひと。病名はALS、筋萎縮性側索硬化症。現代医学では治療法の見つかっていない難病。この病におかされる人は10万人に1-2人というのに。

この病のことはTVの特集などを見て知っていた。運動をつかさどる神経が障害を受けることで筋肉が動かしづらくなり、次第に筋肉が衰えていく病。発病から3-5年で半数の患者が呼吸不全で亡くなるという進行性の疾患で、いまだ原因は特定されていない。友人は発症から3年が経過しており、歩行に支障が出始めて要介護認定の申請を行ったとのこと。

自分の両親は健康で健在だし、祖母は103歳で大往生、自分も長生きできるハズ。自分はまだ死なない、死にたくない、死ぬはずがない、と無意識のうちに全く根拠のない思い込みをしている自分。東日本震災では1万5000人を越える人が亡くなったにもかかわらず、自分の身に起こる覚悟は出来ていない自分。人はいつか死ぬ、自分も例外ではない、そんな当たり前のことが受け入れられていない自分。

それが昨日、人はいつ死ぬか分からないし、どんな死に方をするかも分からないという現実を突きつけられた。一体どう接すればいいのだろう。自分には何が出来るのだろう。

追憶 22011年05月21日 23時06分46秒

故郷の風景
ウチの両親は専業農家。昼間は屋外に出て考え事をしたり、両親の畑仕事の手伝いをしてのんびりと過ごした。昼間はできるだけ外に出て、家の中には居ないようにした。指示されたわけではなかったけど、外の方が安心できた。学校を休んで1ヶ月ほど経った頃には不安や恐怖を感じることはほとんど無くなり、学校に戻ることを考え始めた。夏休みが明けた9月から学校に戻ることにした。

先生の勧めもあって、寮を出て下宿することにした。下宿先は仲のよかった文ちゃんの居たところに決めた。自転車で通う久しぶりの学校。同級生も先生も何もなかったかのように迎えてくれた。他人に影響されずマイペースで過ごせる下宿暮らしは新鮮で、とてもリラックスできた。

前期の期末試験が近づいてきた頃、勉強は明るいうちに済ませて夜は早めに寝るという規則正しい生活を心掛けていた。前期期末試験の前夜、TVを観ているとまたあの例えようのない不安と恐怖の感覚が蘇ってきた。やばい、またあの恐怖に襲われると思った。

そのとき、勉強を教えてくれと友人Nが下宿にやってきた。本当に勉強しに来たのか、俺のことを心配して様子を見に来てくれたのかは分からないけど、多分後者だったんだと思う。そんなに一生懸命勉強するヤツじゃなかったし。Nとくだらない話をしていると気分が楽になった。今度は友人Nに救われた。

次の日からは比較的冷静で、何とか睡眠薬を飲まずに期末試験の全日程を乗り切った。ごく当たり前のことだったが、少しだけ自信がついた。たかが学校の定期試験なのに、俺にとっては人生の試練とも言うべき1週間だった。

試験が終わて間もない頃、東芝をドロップアウトして教員になったM先生に廊下で声を掛けられた。「大丈夫か?君はまだ若いからきっと克服できる。社会に出てからだと手遅になったかもしれない。今までにそういう人を何人も見てきた。」と。何気ない会話だったけど、この悪夢のような経験が俺の人生にとってプラスになるのかと、この時初めて意識した。

確かにこの一件で自分が人よりも精神的に弱いことを自覚し、それを自分で意識するようになった。あとになって慌てることがないよう、何事も事前に準備するようになった。これまでの人生で経験した最大の転期。四国の田舎で天真爛漫で大らかに育った青年が、数ヶ月の間に神経質で繊細な性格に変わったことを自分で感じた。

その後俺は無事高専の5年生に進学した。大学の編入試験を受ける前日の夜、あの不安と恐怖を感じることはなかった。たぶんそれは最初から睡眠薬を飲むことを決めてたからだと思う。薬のおかげでいつもどおりに睡眠をとることができ、試験では実力以上の力が出せた。両親は試験に向かう俺をいつも通りに送り出してくれたけど、誰よりも心配していた筈。合格を告げたときの両親の喜びは今も忘れられない。

悪夢の出来事から1年余り経った5年生の前期期末試験で、俺は初めて念願の1番をとった。5年間の高専生活で最初で最後。心配をかけた先生や両親に成績で示したかった、もう自分は大丈夫だと。このとき薬は飲まなかった。今思えば恵まれていた学生生活だったと思うけど、それなりにいろいろと考え悩んでいたあの頃。

社会人になってからも何度か精神的に追い詰められる状況を経験したけど、なんとか自分でコントロールしてきた。今子供の成長を楽しみに生きていられるのも、あの経験のおかげ。あの経験は俺が社会に出て生きて行くうえで必要なものだったと思っている。

今も常に睡眠薬は持っている。社会人になってからも何度か病院に行き、睡眠薬を処方してもらった。滅多に飲むことはないけど、俺にとってはお守りのようなもの。学生時代に国立病院で処方された睡眠薬も大事に持っている。もう20年も前の薬で効きめは失っているだろうけど、俺を救ってくれた錠剤。

俺は自殺する人を責める気にはなれない。自殺する人の多くは精神的に追い詰められて、正常な判断ができなくなって命を絶っていると思うから。だから上原美優さんが自殺したと聞いた時、とても悲しい気持ちになった。何とか生にしがみつき、故郷の種子島でゆっくりと自分を見つめて欲しかった。まだ若いんだから、時間を掛ければきっと克服できた筈。

俺の経験なんてホント大したことないと思う。これを読んでつまらないとか、弱すぎるとか、甘いと思う人がいて当然だと思う。でもいいと思うんだよね、それで。人は皆それぞれ悩みを抱えていると思うし。人を楽にするというよりも、むしろこれを書く事で自分の気持ちが少し楽になった。

息子の人生はまだ始まったばかり。これから数え切れない程の困難や挫折を経験すると思うけど、絶対に自らの命を絶つということだけは防いでやりたい。いつか自分が父親になったらこの経験を話して、いつでも戻ってくる場所はあるからマイペースでいけと声を掛けてやろうと思ってた。

今度帰国したら久しぶりに友人Nと連絡を取ってみよう。

追憶 12011年05月20日 23時42分17秒

息子
実は上原美優さん自殺のニュースは結構ショックだった。今までも芸能人の自殺のニュースはあったと思うけど、何故か今回のニュースは悲しくなった。息子が生まれて父親になったことと関係があるのかな。

今まで人にはほとんど話したことはないんだけど、若い頃に死を考えたことがある。もし自分の経験を知って少しでも気が楽になる人がいればいいと思い書いてみる。まったく面白いところはないので、読まないほうがいいカモ...

***

あれは俺が18歳の時の出来事。当時高専の4年生だった俺は数日前から前期中間試験に向けて勉強していた。それまであまり身を入れて勉強した事がなかったけど、専門教科が増えるにつれて成績は上がってきていた。頑張れは上位が目指せる位置にいて、大学編入を考えていた俺は首席を取ってやろうと初めて本気で勉強していた。

やがてテストが始まり、手応えは上々だった。テスト期間の前半を終えた頃、ドイツ語の試験の前日にそれはやってきた。他の教科は事前に勉強してたけど、ドイツ語は全く勉強していなかった。ドイツ語は4月から加わったばかりの教科で、まだ内容も浅くて一夜漬けで十分だとも考えていた。仮に点が悪くても、専門教科で十分カバーする自信もあった。

その夜は何故か集中できなくて、時間ばかりが過ぎていった。12時を過ぎて消灯時間となり、自習室も学生で溢れていたので仮眠をとることにした。布団にもぐりこんだけど、その夜は何故かいつものようには寝付けなかった。寝ようと思う程に目が冴えてきて、どんどん意識が研ぎ澄まされて行くような感じ。

何時頃だったろうか、もう眠れそうにないので布団を抜け出して暗闇の椅子に座った。しばらくすると今までに経験したことのない怖さのようなものを感じ始めた。何が怖いのか分からないが、とにかく怖い。落ち着こうと音楽を聴いたりしたが、ほとんど耳に入らなかった。頭の中は意外と冷静で何が怖いんだって自問自答しつつも、ただただ得体の知れない存在に潰されそうな不安と恐怖に手足が震えはじめた。

その理由の分からない恐怖は収まるどころか時間と共に益々強くなった。怖くて不安で、生まれて初めて死にたいと思った。死ぬ事が怖いとは感じていなかったし、むしろこの恐怖から逃れられるなら死んだ方が楽だと本気で思った。寮の屋上に上がって飛び降りるとか、どうやればこの恐怖から逃れられるか頭の中で死に方を考えた。その時にふと頭に浮かんだのが、数年前に自殺した中学時代の友人のことだった。

その友人はとても快活な女の子で、自殺とは全く無縁と思えるような元気な子だった。両親の離婚で悩んでいたようで、高校に進学して1年ほど経った頃に16歳の若さで自らの命を絶った。それまで彼女はなぜ死んだんだろうとか、死ぬ気になれば何でもできるのにと考えていた俺が、この時彼女が何故死んだのか分かったような気がした。

残された人の悲しみや正常だった頃の自分の考えが頭をよぎり、死ぬのだけはいかんと思った。それが自殺を踏みとどまった瞬間だった。ただ運が良かっただけ、彼女に助けられただけ。もしかしたら今の自分はいなかったかもしれないし、生きていたとしても違う人格になってたかもしれない。

しばらくして勉強から帰ってきた寮のルームメイトの健ちゃんが寮の部屋で震えている俺を見つけ、普通でないことを悟り夜が明けるまで寝ずに横に居てくれた。震える体をさすってくれて、朝になったら病院に行こうと励ましてくれた。そして夜が明け、健ちゃんが担任の先生に連絡してくれた。俺は助かった。

先生は俺を教官室に呼び、両親が迎えにくるから実家に帰ってしばらく休みをとるよう勧められた。実家から高専は車で1時間ほどで、暫くすると母が迎えに来た。どのようなやり取りがあったかはっきりと覚えていないけど、教官室を後にするときに母に向かって先生が言ったことは覚えている。

「学校のことは考えないでいいので、ゆっくりと休ませてください。これまでに受けた試験はほぼ全てがトップの点でしたよ。1日も出席しなくても私が責任を持って5年生に進級させますから、心配しないでください。」どこまで本当なのかは分からないけど、母はただただ頭を下げていた。

学校を出てからすぐに病院に向かった。まだメンタルヘルスなんて言葉は誰も知らなかった頃、国立病院の精神科を受診してカウンセリングを受けた。精神的に疲れているようだと言われた。強い不安や恐怖を感じることは伝えたけど、死のうと思ったことは話さなかった。ただなんとなく、それを話すと自分が精神病扱いされると思った。処方された睡眠薬を手に、久しぶりの自宅に帰った。

自宅で迎える最初の夜、またあの不安と恐怖は襲ってきた。生まれて初めて睡眠薬を飲み、ようやく丸二日ぶりの眠りについた。